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「小江戸」の名で知られる埼玉県川越市。ここでせんべいづくり一筋に励む人がいる。小島藤男(79歳)だ。小島さんは(有)小島米菓を創業。この半世紀をせんべいとともに生きてきた---。

 国産米だけでつくる、その姿勢を一貫

 原料として使われる輸入米の比率が高まっている証だろうか。ここ数年、スーパーで売られているせんべいのパッケージに、「国産米100%使用」と表示してある製品を数多く見かけるようになった。
  業界団体は、輸入米と国産米の使用割合を「把握していない」(全国米菓工業組合)とするが、業界関係者はこう言い切る。
  「大量生産の安いせんべいは輸入米を使っていると思って間違いありません。
  いま、加工品原料の原産国表示が検討されていますが、それがせんべいで義務化されると、消費者も多くの製品の原料が輸入米だったということに気づくはずです」
  いまだに世はデフレ時代。それを支えているのが輸入原料という事情は、米菓業界でも変わらないようだ。こうした風潮に、(有)小島米菓の小島藤男社長はやんわりと釘を刺す。
  「よその国のコメまでも使おうなんて欲をかいちゃいけない。ウチは輸入米を使う気はないし、国産米にこだわっていきたいね。ウチみたいな小さい所は、そういうこだわりがなければいけません。日本人は日本のコメを食べるのが一番幸せなんだよ」
  1993年のコメの大凶作が契機となり、米菓業界では輸入原料米への需要が高まった。最初のターゲットはタイ米。ところが、水をあまり吸わないという性質が克服できず、業界の関心は中国、オーストラリア、カリフォルニア産のコメに移っていつたという。
  「そうした輸入米を原料に使うから、2袋で350円という低価格が実現できる。輸入米の使用割合は増加傾向にあります」(小島米菓・柳楽(なぎら)昌三専務)

    食べる人の納得を追求、中身にこだわる

  小島米菓のこだわりは国産米を使うこと、化学調味料をはじめとする添加物を排除することにある。たとえ高価なせんべいでも、「アミノ酸等」の使用が一般的な業界にあってである。その契機となったのが、生活クラブとの出会いだった。
  小島米菓が生活クラブと提携したのは昭和47年(1872)のこと。生活クラブのお菓子のオリジナル品第一号として「あられ」を共同開発したメーカーの紹介が緑だった。当時、市販のせんべいは見栄えや風味をよくするための合成着色料や化学調味料が使われていた。しかし、生活クラブは、(開発にあたって化学調味料を使わないこと、醤油、みりん、のりは生活クラブが指定する原料を使うこと)などを要求した。業界の常識に対する型破りな提案だった。
  それでも、小島社長はこれをすんなりと受け入れる。
  「化学調味料を使うことは、せんべいの機械メーカーの人から『そういうもんだ』と教えられていたから、何の疑問も持たなかったね。ただ、生活クラブから『健康のために添加物を除いてほしい』と言われ、健康にいいのならと、ためらわず使わないことに決めましたよ」(小島社長)
  醤油なども、「それでおいしくなればいい」と切り替えた。生活クラブの菓子類のオリジナル品第二号として草加せんべい、餃子せんべい、のり角せんべいの3種類を開発したのは昭和52年(1977)。翌年には玄米せんべいに胡麻を入れた「玄米せんべい」を、その後も「玄米せんべい胡麻だくさん」などを開発していく。
  「玄米せんべい胡麻だくさん」では、名称をめぐるトラブルもあった。  「当初は『多胡麻せんべい』という名前でした。ところが、他社が『多胡麻』を商標登録してしまい使えなくなってしまったの、です。そこで『ごまごま』や『胡麻いっぱい』、それに『胡麻三昧』などの案が出て、いまの名称に落ちつきました」(柳楽専務)
  胡麻たっぷりの製品は、小島米菓がいち早く手掛けたものだったという。が、小島社長は商標には何のこだわりも見せない。
  「名前なんて何でもいい。『太郎に次郎』でもいいんだよ。食べる人が納得すればいいんで、名前より中身にこだわりたいよね。名前でうまいこと言ってもダメ。食べ物はおいしくなければいけないんだから」

  仕事を愉しむ、それが健康の秘訣

 小島米菓の歴史は、小島社長の足 跡そのものといってもいい。
  農家の四男だった小島社長が埼玉県福原町(現・川越市)で「芋せんべい」の製造販売を手掛けたのは昭和23年(1948)。4年間で50万円(現在の3000万円に相当)もの預貯金ができたという。
  米せんべいを始めたのは、他人に貸していたカネが、米せんべいの製造機械一式の形に姿を変えて戻ってきたから。「それなら、芋だけじゃなく普通のせんべいでもやってみようかね」との軽い気持ちで乗り出した。
  とはいえ、当初は養蚕農家の物置き小屋を借りての商売。しかも、プロとして修業はせず、見よう見まねで覚えたせんべいづくりだった。ところがこれがよく売れた。
  「せんべい屋を始めた時から街の中心部に自前の工場を持ちたいと考えていました。ところが、ここは女房の実家から分けてもらった土地でね…。
  それにね、女房がいないと自営業は潰れちゃう。本当に一所懸命にやってくれたし、どこの家でも同じでしょうが、やはり感謝の気持ちがないとダメだね」
  いまでも従業員の先頭に立ち、工場内を忙しく見て回る小島社長。その様子は、年齢を感じさせないほど機敏なもので、動きにまったく無駄がない。本社入口にある販売所にお客が来れば走って応対し、帰ると踵(きびす)を返してせんべいづくりをするといった具合だ。まさにかくしやくとしたものである。
  「写真は趣味ではない」(小島社長)とはいうものの、休日には愛用のカメラを携え、一人で小旅行に出掛けることが多い。
  「おせんべいづくりは愉しいし、仕事は愉しまなければダメだね。それが健康を保つ秘訣だし、健康には自信がある。いまでも、一日中立っていても大丈夫です」

それは芋せんべいから始まった

 江戸を守る要衝として重視された川越は、さまざまな江戸文化の面影を残し、いまも「小江戸」と呼ばれている。江戸とは食べ物でも結びつきが強く、「さつまいも」もその一つだ。
  関東で「さつまいも」がつくられるようになったのは200年以上も前のこと。寛政年間(1789〜1801)に江戸に焼芋屋が現れ、原料の産地が川越だった。また、天明の大飢饉では、「新河岸川舟運」で運ばれたさつまいもが、江戸の人たちを救ったといわれている。
「さつまいも」を利用した芋菓子が「芋せんべい」で、明治に入ってから考案された。老舗の和菓子屋が、それまでふかすか焼くか、時には甘く煮て食べるしかなかった食べ方に一工夫を凝らしたのが起こりとされる。「さつまいも」を薄切りにし、鉄板の上に並べて火でゆっくりと焼き上げてから黒ゴマをつけるという素朴なものだつた。その後、砂糖蜜を塗って仕上げるようになり、川越名産として和られるようになっていった。

       ◆   ◆   ◆

 実は、小島米菓の前身は芋せんべい屋だった。小島藤男社長(79歳)が戦地から復員後、昭和23年(1948)に一人で
始めた。
「現在のように砂糖をつけずに売っていました。なにせ終戦後で食べ物が無い時代でしたからよく売れました。数年間働いただけで、人にお金を貸せるようになるほど儲かりましたね」
  コメのせんべいを扱うようになったのは昭和27年(1952)。「一人では大変ではないのか」という知人の勧めで、農家の出身のスイさん(74歳)と結婚、夫婦二人で米せんべいの製造事業をスタートした。これが芋せんべい同様、飛ぶように売れた。
  戦前からの歴史があるという川越の米せんべい。 最盛期には市内に50軒以上のせんべい屋があった。それが現在は20軒程度になってしまっている。
  小島米菓と生活クラブの出会いは昭和47年(1972)。今も、そして当時も味付けに化学調味料を使うことは当然だった。が、「それを使わずにせんべいをつくってみると何の問題もない。自分で食べてみて『これでいいんだ』と納得しました」(小島社長)
  原料に輸入米を使うメーカーが多い中、国産米を使うことにこだわり続けている。

文/本誌・内野裕 撮影/尾崎三朗