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時代は変わっても、飴作りの基本は変わりません

  甘藷澱粉(かんしょでんぷん)水飴を探して

  長い歳月の中で人は「寝られない」経験をすることがある。二葉製菓鰍フ会長・二葉昭作さんも例外ではない。その一つが遺伝子組み換え問題だった。
  「遺伝子組み換え食品」がマスコミで取り上げられるようになったのは、二葉さんが社長だった1996年の後半頃からだ。
  「新聞には大豆やトウモロコシなどが出ていましたが、パイテク技術の一つであるという程度の認識でした」(二葉会長)
  ところが翌年1月に生活クラブ連合理事会が、「組み換え技術によって生産された作物・食品及びその加工品の取り扱いを行わない」との基本態度を発表した。
  そこで原料調査を始めると、組み換え作物の混入が否定できないものが出てきた。キャンディや飴では主原料ともいうべき水飴の原料のコーンスターチだ。原料になるトウモロコシは、組み換え作物を作付けしている米国からの輸入が大半である。
  「昔は水飴といったら甘藷でつくっていたので探しましたが、見つかりません。見通しもなく悶々とした日々を過ごし、夜中に思い出しては目を覚ますなど、こんな経験は人生で初めてでした。ある日ふと過(よ)ぎるものがあって、『飴のことなら機械屋さんも仲間だ。笑われてもいいからM製作所の社長に聞いてみよう』
と電話したところ、『横浜の飴メーカーに水飴を卸している業者が神奈川県秦野市にある』と教えてくれました」
  水飴を製造していたのは、巨`野農産加工。電話番号を開くやいなやすぐに電話をかけた。
  「水飴の製造をやっていますか」
  「やっていますよ」
  「原料は甘藷澱粉ですか」
  「もちろんです」
  「東京の飴屋ですが、その水飴を使いたいのですが、可能ですか」
  「ぜひお願いします」
  今年6月頃から甘藷毅粉水飴は、千葉県の向後スターチ鰍ノ切り替わつたが、二葉昭作さん、社長時代最後の大仕事だった。

    『鍋屋』として就職

 さて二葉会長(旧姓若林)さんが、二葉製菓に入ったのは、20歳の時の51(昭和26)年3月だった。
  「終戦間もない48年に栃木県から上京し、浅草区のある商店に奉公。鍋屋として飴をつくっていましたが、その店が転業するというので、苦労して身に付けたことを活かそうと思い、菓子の機械屋さんの紹介で雇い入れてもらいました」(二葉会長)
  鍋屋とは、当時の飴作りが、七輪にコークスを入れて火を起こし、原料を入れた銅鍋をのせて煮詰めてつくっていたことから、その仕事をする者をそう呼んでいた。
  当時二葉製果の製品は、キャラメルが中心だったが、蝕もキャラメルも火加減の違いだけで、鍋屋だった昭作青年には何の造作もなかったという。
  「食料事情が悪く、キャラメルは水飴にマーガリンと脱胎粉乳少々を加え、小麦粉を入れて練り上げ成型したお粗末なもの。飴は質の悪い黒飴や落花生で増量した落花玉ぐらいでした。原料の砂糖がなくて、水飴ばかりでべたつくので、オブラートで包んで販売していました」
  今から思えば粗悪な製品だが、製造が間に合わず、お客さんが手伝うほど売れに売れた。また、包装は女性工員が手作業で行うのだが、重量歩合制なので製造が遅れると、「今日の稼ぎが少なくなる」と怒られた。そこで昭作青年は女性工員が帰った後に、明日の分をつくったこともあつたという。
  就職して二年目。同社はキャラメルの製造をやめて、飴菓子にカを入れることになった。ボイラーを設置し、連続式煮詰機の真空釜を入れて、本格的にドロップス(今のキヤンデイ)の製造を行うことになった。
  「東京には佐久間、地球、花王、おまたドロップなど、ドロップ屋が7軒から8軒あって、羽振りが良かったので、三目社長の二葉文雄が刺激されて始めました」(二葉会長)
  こうしてドロップメーカーとなって販売も増えたが、当時の原料水飴は一斗缶入りで、缶から出すためには事前に湯煎しなければならず、今度は昭作青年、午前三時半に起床して湯煎の準備を行わなければならなかった。

   (あんず)飴で大失敗

 生活クラブとの出会いは、それから約30年後の82(昭和57)年1月になる。すでに昭作さんは二葉家の三女と結婚。製造だけでなく営業・販売に奔走していた。
  「東京カリント鰍ウんから、『生活 クラブという堅い生協さんが、飴屋さんを探しているから、一度伺つてみたらどうか』と勧められました」
  そこで世田谷区経堂の事務所に、つくっているものを一通り持参したところ、まず着色したもの、次に香料などの添加物を使ったものが除かれ、最後に黒飴だけになってしまった。
  「一つでは寂しい。もう一つ飴玉を増やしてミックスでやろうということになりましたが、妙案が浮かびません。さんざん考えた末に砂糖と水飴を煮詰めただけの飴玉を提案しました。濃厚な黒糖飴と、くせのないさっぱりした甘さの白飴ならばウケるだろうと考えたのです」(二葉会長)
  結果は大量の注文で、残業の連続だったが、大変うれしかったという。
  その後、取り組む飴の種類や焼き菓子も増えたが、忘れられないのは、90年の杏飴のことだと振り返る。
  「杏飴が大当たり。こんなに注文があるのなら、もっと良い杏を入れて注文数を持続させよう。原価は高くなるが、納入価格を変えなければ、色も味も良いので喜ばれると思って、黙って替えてしまいました」
  それから1カ月くらい過ぎて生活クラブの担当者から、「最近の杏は始めた頃と色も味も異なる。いったいどうしたことか」と電話が入った。
  経緯を説明したが、「気持ちはよく分かるが、約束した仕様書に反していて、組合員をだますことになる。良心的にやったことでも違反は違反なので取り組みを中止します」と言われてしまった。
  「予想外の展開に頭の中は真っ白になり、言葉も出ません。やっと気を取り直して、明日お詫びに伺いますと言って、12月21日早朝土砂降りの雨の中、事務所に出向いたことをはっきりと覚えています」(二葉会長)
  幸いにも中止は杏飴のみだったが、「これからは何でも相談して下さい」 と言われた時は目頭が熱くなり、何度も頭を下げたという。
  このように二葉製菓を支えてきた二葉昭作さんが、実務職の社長を息子の晃司さんに譲り、会長職になったのは5年前の2000年である。
  「時代の移り変わりは目まぐるしく、結婚前に夜、寮の押入れの中で練習したそろばんや記帳などはパソコンに取って代わりました。このような機器の扱いは、今の若者にはかないません。経営の若返りも必要です。もう少し熟してからとも思ったのですが、本人が『俺が社長をやるから』と言い出したので、思い切って交代しました。しかし、飴作りの基本は砂糖と水飴を煮る作業です。今でも工場に入って、若い連中にはっぱをかけています」

二葉製菓(株)の創業

  二葉製菓は、1891(明治24)年と古い。初代の二葉秋蔵氏が、東京都神田大和町(現千代田区東神田)に二葉秋蔵商店として開業。おこし・打物(落雁)を製造・販売していた。 1923年9月1日に関東大震災が発生し、神田一帯も焼け野原。復興区画整理のために立退きを命じられて旧浅草区柴崎町に移転した。
  さらに45年3月10日の東京大空襲で焼け出され、その年の暮れに葛飾区青戸町(現葛飾区白鳥)の京成電鉄お花茶屋駅のすぐそばに移転。52年にそこから400m離れた場所に工場を移し、現在に至っている。

  飴・キャンデイの製造工程

 生活クラブ向けの飴・キャンデイの主原料は、国産ビートクラニュー糖と甘藷澱粉水飴。甘藷澱粉水飴は一斗缶で入荷するので、缶から出やすいように事前に湯煎しておく。約110℃の二重釜にその二つを入れ溶解し煮詰める。2回ろ過し、不純物を取り除き、低温で短時間真空釜で煮詰めて水分を除去する。
  一定量を真空釜より取り出し、ポール状の鍋に受け、粉末果汁、香料、クエン酸などを加えてこねる、通常はここで合成着色料を加えるが、生活クラブのものは入れない。
  出てきた生地は、冷却機の冷却テーブルの上で、180度ずつ回転しながら、何度も内側に折り込まれ、上から押されながら、ゆっくり冷ます。
  その生地の硬さの確認を行いながら、ロール機に入れてムラのないように整え、丸太状から徐々に細い棒状に伸ばして、スタンピングマシーン(成型機)に通し、一つひとつの飴やキャンデイの形にする。
  送風・冷風装置の付いた4段コンペアーで冷まして、目視検査を行い不良品を除去。金属探知機を通して、コンテナに詰めて、包装工程に送る。

文/本誌・細井和男 撮影/尾崎三朗